• 世界初のバイオ燃料事業を
    支える、
    マザー・テレサが
    授けたメッセージ

    染谷 ゆみ株式会社TOKYO油電力 代表取締役

    2018.06.29

今から25年も前となる1993年。世界で初めて、揚げもの後の残り油(廃食油)からバイオ燃料「Vegetable Diesel Fuel(VDF)」(Bio Diesel Fuelとも呼ばれる)を生み出すことに成功。さらにTIME誌の「Heroes of the Environment 2009」に唯一の日本人として選出されたのが、TOKYO油田プロジェクトリーダーの染谷ゆみさん。バイオ燃料VDFは現在、区の公用車やバスを走らせ、フジロックで音楽や興奮を生み出し、IKEAなどクリーン電力の活用に取り組む企業の電力としても期待されています。人々の暮らしの足元に広がる油田から生まれた電気は、私たちの未来を明るく照らし始めました。

以下、容量の関係により、一部内容を割愛させていただきながら、そのエッセンスを余すところなくご紹介します。

油は、湯沸かしにも、灯りにもなる

皆さんはご家庭で使い終わった油をどうしてますか? 私は廃食油からバイオ燃料を生み出す事業を通じて、東京を油田に変えるというプロジェクトを主宰しています。東京だけで1年間に10万トンにも及ぶ廃食油の90%は家庭から出るものです(※1)。その家庭から出た廃食油をバイオ燃料に変えています。 油から石鹸やキャンドルを作るワークショップをすると、驚かれることが多いんですが、油は何にでもなるんです。実は、油から作ることができるキャンドルというのは有事の際にとても頼りになり、10分あれば100ccのお湯を沸かすこともできます。ガスが止まって火が起こせないとき、停電して真っ暗な夜が心細いとき、ご家庭に油があれば熱も明かりも手に入れられる。キャンドルの作り方を知ってさえいれば、油はすぐ資源になるんですね。それを伝えるためにワークショップを行っています。現在、私どものところでは1Lの使用済みの油があれば、ご家庭で使う1日分の電力がまかなえます。

※1 業務用の使用済油は産業廃棄物として処理されるため。

染谷さんは、18歳のときに放浪先のチベットで土砂災害を目撃したことが転機となったと語る。

「これは天災じゃない、人災なんだ」

私は高校を卒業後、世界を見たいという思いから、アジアを中心とした放浪の旅に出ました。その旅の途中、中国からチベットを越えてネパールのカトマンズに行こうとした際に土砂災害に遭遇。道が寸断してバスは走れないから、外国人は飛行機に乗って、と言われました。どうしようと思っていたそのとき、居合わせたフランス人が「車をチャーターするから一緒に行こうよ」と声をかけてくれ、7、8人のチームで相乗りし国境を目指しました。やっと中国側からチベットに入る国境の村まで来た、というところで土砂崩れがひどくなり、ドライバーが「引き返すから、みんなここで降りてくれ」と言うんです。それで車を降りて、地割れがあるようなところを歩いて進みました。裂け目の幅は30cmくらいなのですが、底が全く見えないくらい深く割れていて、怖くてまたげないような場所でした。 その辺りは山岳民族が住む場所だったのですが、しばらくするとカランカランという(山岳民族の方が身につけている鈴の)音がして、なんだろう、と思って振り返ったら、いま自分たちが歩いてきた道を、山岳民族の方が必死に逃げてきている。その直後、ブワーッと一気に土砂が崩れました。木がなぎ倒され、岩がゴロゴロ落ちて。初めて山が崩れるところを目の当たりにして、私はへたへたっとなりました。もし、5分、10分遅かったら、と思うと力が入らなくて。そのときに村の人が、「これは天災じゃないんだ、人災なんだよ」と言ったんです。ドキッとしましたね。こんな土砂災害が起こるのは、地盤が緩む雨季があるにも関わらず、木を切り倒し、道路を作って環境を破壊したから。だから天災じゃない、人災なんだ、と言われたんです。この原体験が、私が環境問題を意識するきっかけとなりました。

さらに旅を続けたインドの地で、染谷さんはマザー・テレサのもとを訪れる。

「自分のところで、
自分のことをちゃんとしなさい」

インドではマザー・テレサに会いました。当時は、ミサに行けば普通に会えたんですね。ちいさくて、まるい背中をしていました。そして、「自分のところで、自分のことをちゃんとしなさい」と言われたんです。そのとき受け止めた思いは、後に自身で起こした会社の企業理念である「Think globally Act locally!」という言葉につながっていきます。地球規模の視点を持って、自分の身のまわりから着実に、循環型の地域社会づくりをしていくことが大切なんですね。 話を戻すと、旅を終えて帰国した当時、日本はバブル絶頂期。環境問題なんか言っている人はほとんどいない時代です。下手すると、環境問題に言及することは経済成長の足かせになる、という風潮さえ世間一般にありました。大量生産、大量消費、大量廃棄の時代。そんな時代に環境問題の話なんかをするもんだから、まわりから「あいつ馬鹿じゃねーか」と言われていました。友だち同士で食事するときも、当時は割り箸の時代ですから、家からお箸を持っていってみんなに配ったりして。マイ箸の提案ですね。そうすると、次の集まりに呼ばれなくなったりして(笑)。でも今、その頃の友達に会うと「染谷は先見の明があった」なんて言われたりするからおもしろいものです(笑)。 そんな状況下だったので、帰国してすぐ環境問題に取り掛かったのではなく、一旦、当時日本ではまだ小さな旅行代理店だったHISに入社しました。現代表取締役会長兼社長の澤田秀雄さんの面接を受け、食事を共にすることもあり、学んだことも数知れず。今でも私のDNAはHISだ、と思っています。そのHISで香港支社に転勤となったのですが、ちょうどそのときに、天安門事件が起きたんですね。民主化デモです。

そこで問われる「見た者の責任」

18の頃から心の中には環境問題への思いがあるところに、民主化デモを目の当たりにして、人権問題まで気になり始める。今でも「どうしてそんな活動をしていけるんですか?」と聞かれることがありますが、私としては、まわりの環境がそうさせた、という感覚が強い。目の前で起きている現実を、見ざるを得ない。無視できない。見た者の責任、という感じです。あの日見たチベットの土砂災害に、30年後の日本の姿が重なったのかな、と今でも思います。 東日本大震災で原発の大事故が起きたとき、私は椅子から転げ落ちて、とても落ち込みました。自分なりに環境問題を考えてきて、行動もしていたつもりだったのに、もうダメだ、日本はこんな大きな事故を起こしてしまった、と(※2)。実は当時から、環境問題を語る人のグループ内でさえ、原発の話はタブーという風潮がありました。私たちは若い頃にチェルノブイリの原発事故を見ていて、原発って危険かもしれない、という感覚があった。それなのに、なんですね。そして、震災支援をする中で、とにかくできることをやろう、できることを、できるところまでやろう、と思いました。

※2 廃食油からVDFを生み出す事業を行う株式会社ユーズの設立は1997年。2017年までに東京を油田にする構想を掲げていた。その構想を形にしている途中の2011年に東日本大震災と原発事故が起きてしまった。

東京を油田に!
TOKYO油田プロジェクト

廃食油からバイオ燃料が作れる。つまり、人々の暮らしのあるところ、ここ東京も油田だ! その気づきから誕生した株式会社ユーズの設立は1997年。その後、2003年から2007年まで、青山学院大学の夜間部に通いました。MBA取得の流れもあり、社会人に門戸が開かれていた時代でした。この間は、朝7時に起きて会社に行き仕事、夕方4時半になると大学へ向かって勉強をする、というのをひたすら繰り返し、その往復だけをしていました。すると不思議なもので、それまで落ち込んでいた会社の業績があがってきたんですね(笑)。大学を卒業した年が、ちょうど会社設立10周年の年で、まわりから「おめでとう」なんて言われるわけです。新たに起こした会社が10年もつのはすごいこと、って一般的に言われますよね。ただ、その嬉しさがピンとこなかった。そこで、10年先、自分たちはどういう社会を目指すのかを見つめ直して2007年に立ち上げたのが、TOKYO油田プロジェクトです。「東京中の油を一滴残らず集める」ことを掲げました。2016年、プロジェクトは最終章として、廃食油から生まれたバイオ燃料で発電したクリーンな電気の販売までを行う、株式会社TOKYO油電力となりました。(廃食油を集めていた)油屋が、(クリーン電力を販売する)電気屋になったという感じですね。まだまだ油回収の面では一滴残らず集まっているわけではないので、もっと油を集めていかないとな、という思いです。 未来予想図としては、2020年は東京オリンピックで外国からもたくさんの方が来るので、選手村でおいしい揚げものを食べていただいて、その使用済油で選手村のバスが走るといいですよね。いま画策しています。2020年までは東京にいようと思いますが、それ以降は世界中の油田を掘りに行きたいな、と思っています。揚げものがある、皆さんの生活のある場は、枯れない油田なんですね。皆さんの街は、油田なんです。

一方で、お店で揚げ物を買って帰る「中食」の増加や、ノンフライヤーなどの調理技術の革新により、家庭での油の使用量は今後減少していくかもしれない。

究極の目的は、廃食油が出ない社会づくり

私は油屋ではあるけれど、究極としては、廃食油が出ない社会になったらいいな、と思っています。年間で10万トンもの廃食油が家庭から出るから、こういう事業があるわけで、もっと遠い目標から言えば、廃食油をなくすためにこういう活動をしている、とも言えるんですね。結論としては、廃食油が出なくなって、この活動をする必要がなくなっていけばいいな、と思っています。じゃあ、ビジネスとしての東京油電力はどうするの?となりますが、別にそれでいいんです。あまり詳しくは言えませんが、10年後、20年後には皆さんが今、まったく想像していないようなものから生まれた電力を使う生活になっていると思います。油屋が電気屋に変わったように、油発電がなくなっても別のエネルギーを売ることもできる。もっと言えば、売ること自体が目的でもなんでもないんですけどね。

エネルギー0円時代に、あなたはどう生きるか

SDGsにもありますが、私の究極の目標は、油を集めて電気を売ることではなく、100年後の貧困のない社会、です。エネルギーがもし無料になったら、働かなくてもいい時代が来る、と思います。私が若い人たちによく言っているのは、「自分がどう生きるか、よく考えるんだよ」ということ。まだまだ、仕事は稼ぐためにする、という人が多いですけれど、お金のために生きなくていい時代が来たら、みんなはどう生きる? それを、今から考えておいたほうがいいよ、と。エネルギーは無料になります。そういうエネルギーがこれから出てくるんです。さぁ、皆さん未来を見てください。目先ではなくて、もっと先にある目標やゴール、ミッションというものがあれば、ただモノを売るだけではなく、違ったコトが生まれるんじゃないかな。私はそう思っています。

生まれ育った墨田区、ものづくりの町への思い

私が拠点を構える墨田区というのはものづくりの町なんですね。優秀な技術を持つ会社や町工場が数多くある。私はこうやってバイオ燃料の話などをさせていただいていますが、墨田区の町工場の方々の力がなかったら、実現していないと言ってもいい。バイオ燃料のプラントも、町工場の方々がいろいろ試行錯誤してつくってくれたものです。東京は土地も人件費も高いから、大量生産品をつくるのは難しい。けれど、特殊技術を要するハイレベルなものづくりにはとても強い。つくれないものは何もないと思う。みんなのアイデアがあれば、何でもつくってくれる。そういう場所が墨田区にはあるんです。 日本は「つくる」ことに対しては資金援助の面でのサポートも厚い。しかし「できたものを売る、流通させていく」という段階になると急に見放してしまう。特に日本のベンチャーシーンはそうですね。お金と時間がかかる、すぐに回収できない、ということで、長い目で見た投資はしてくれない。そうすると、全部アメリカに持って行かれてしまうんです。アメリカは育ててくれて、利益回収までやってくれる。せっかくの知的財産が国外に流出してしまうわけですね。それはもったいないから、アイデアがあれば墨田に来てください(笑)。アイデアをリアルにするものづくりもできますし、流通まで支援するスキームも持っている。最後まで応援させていただけると思います(笑)。

一輪の花が教えてくれたこと

東日本大震災のとき、台湾から届いた支援物資を気仙沼まで届けたことがありました。私たちはバイオ燃料を持っているから、それも積んで、近所の方々から「一緒に持って行って」と言われた細々とした物資も積んで。支援に行く人たちの車が高速のパーキングに何台も止まっていて、「天ぷら油再生燃料VDF使用車、油回収します」という文字が書かれた私たちのトラックを見た人たちから、何度も「頑張ってね」と声をかけられたんです。「こういうエネルギーをつくってこなければいけなかったね」と。被災地に行けば、その場にいる方々は家が壊れたり、家族が行方不明であったり、体育館には遺体があがっているという状況がある。そんな中で、被災者の方々が私たちのトラックを見て、応援してくださったことも印象深いですね。 それから、私たちが積んできた支援物資の中に、お花があったんです。近所のお花屋さんが「持って行って」と渡してくれたものでした。その頃は3月下旬で、物資が足りないから一日一食くらいしか食べられない状況でした。そんな状況にも関わらず、いちばん喜ばれたのは、食料ではなく、お花でした。あまりに辛い現実を前に、ご飯を受けつけなくなっていた人もいました。そんなとき、お花をおばあちゃんのところに飾ろう、と。亡くなった方にたむける花がようやく届いた、と。たった一輪の花です。それだけのことで、人はグッと生きる力が湧いてくるんです。その光景を見たときに、人はパンのみで生きているのではない、と強く感じました。花が育たないような地球にはしたくないな、と。

エピローグ:
コンセントの向こう側にある世界

原発に関する問題は、まだ何も終息していないんですね。知らないというのがいちばん怖いし、知らないというか、考えていないというのがいちばん困ると思います。私はもうすぐ50歳を迎えるのに、原発がここまで危険だとは事故が起こるまで知らなかった。原発事故が起きた後、私ら世代の人はみんな「知らなかった」って言うんですよ。知っていて(原発エネルギーを)選んでいたなら話は別だけど、知らずに扱っていて事故が起きたときに、あー、どうするんだ、って騒ぐのはよくないな、と思いました。 でもおもしろいもので、都内で原発反対の大規模デモに参加している人に「それで、電力会社は変えたの?」と聞くと、「いや、そのまま」って人が結構いるんですよね(笑)。一般の人でも、震災の当時は原発をすごく嫌がっていなはずなのに、時間が経ってきて、なんとなくそのまま原発エネルギーを使い続けている。今回、ご縁があって東京油電力を知っていただいた皆さんには、ぜひバイオ燃料を選んでいただきたいけれど、そうまでいかなくとも、コンセントの向こう側にある世界、自分はどんな電気を使っているのか、というのを想像していただきたい。私は購買の仕方、消費の仕方を変えることで、社会は必ず変わっていく、ということを提案したいんです。皆さんが再生可能エネルギーを選ぶことで、エネルギーの未来は変わります。 今、RE100(※3)っていう言葉がありますが、IKEAなど一部の先進企業は再生可能エネルギーしか使わない、と宣言していて、実際に電気を供給してほしい、とオファーがあります。それこそ、同様にエネルギー問題に取り組むAppleに売れば、たくさん売れるかもしれません。ただ、それじゃつまらないから、大手がやりたがらないような小さな電気を販売しています。あんまり儲からないんですけどね(笑)。それでも、皆さんの何かのきっかけになってもらえたらいいな、と、そういう思いで続けているんです。

※3 RE100…事業運営を100%再生可能エネルギーで調達することを目標に掲げる企業が加盟する国際イニシアチブ。「Renewable Energy 100%」の頭文字から命名された。

染谷 ゆみ
TOKYO油田 プロジェクトリーダー 株式会社ユーズ 代表取締役
株式会社TOKYO油電力 代表取締役
東京都墨田区八広生まれ。1986年アジアを中心に旅したのち、旅行代理店香港支社勤務。1991年染谷商店入社。2003年青山学院大学に教職取得。2007年TOKYO油田プロジェクト開始。2009年「TIME」Heroes of Environmentの一人に選ばれる。2016年株式会社TOKYO油電力を設立、代表取締役就任。著書:『TOKYO油田』一葉社 2009
染谷 ゆみ
TOKYO油田 プロジェクトリーダー
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東京都墨田区八広生まれ。1986年アジアを中心に旅したのち、旅行代理店香港支社勤務。1991年染谷商店入社。2003年青山学院大学に教職取得。2007年TOKYO油田プロジェクト開始。2009年「TIME」Heroes of Environmentの一人に選ばれる。2016年株式会社TOKYO油電力を設立、代表取締役就任。著書:『TOKYO油田』一葉社 2009

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