• 情熱が生んだ時代の架け橋、
    素材革命の
    知られざる舞台裏

    山﨑 敦義株式会社TBM 代表取締役

    2018.07.25

世界各国が熱い視線を送る新素材・LIMEX(ライメックス)。石灰石を主原料とし、紙やプラスチックの代替品へと姿を変えるLIMEXは、深刻化するグローバルリスク解決の糸口として大きな期待を集めています。そのLIMEXを開発しているのが、ネクストユニコーン企業とも称される株式会社TBM。代表の山﨑敦義さんは、中学卒業後、大工となり、その後中古車販売業を起こした異色の経歴の持ち主です。2016年に「世の中に最も社会的影響を与える企業-ソーシャルインパクトアワード」を、2017年には「日米イノベーションアワード」を相次ぎ受賞。山﨑さんの情熱が生んだ時代の架け橋は、今日もその輝きを増し続けています。

以下、容量の関係により、一部内容を割愛させていただきながら、そのエッセンスを余すところなくご紹介します。

次世代の新素材LIMEX、その3つの特徴

石灰石を主原料とし、紙やプラスチックの代替となる新素材・LIMEX。その最大の特徴は、製造に水をほとんど使わないこと。1トンの紙を作るには100トンの水が必要とも言われていますが、LIMEXは水がない場所、水不足に悩む国でも小規模施設で容易に生産可能です。2つ目の特徴は、主原料の石灰石が世界中、ほぼ無尽蔵に埋蔵されていること。資源に乏しい日本でも100%国内調達可能です。石灰石は地球上どこにでもある安価な素材なんですね。3つ目は、紙だけでなく、食品容器など、プラスチックの代替品としても使えること。従来のプラスチックは、100%石油由来樹脂を使っていますが、石灰石を50%以上用いることで、石油由来樹脂の使用割合を大幅に下げることができます。環境負荷が低く、価格競争がある。LIMEXはエコノミーとエコロジーを両立する新素材なんです。

「水を一滴も使わない」
LIMEXが目指す循環型社会

海に囲まれた日本では水不足といってもピンとこない方が多いかもしれませんが、水資源不足はグローバルリスクです。世界経済フォーラムでは過去5年間(※1)、水に関わるリスクが上位3位以内にランクインし続けていて、2050年には世界中の4割もの人が水不足環境に陥るという予測もあります。そのため、水資源が乏しい国にとっては、紙をつくるために大量の水を消費することは大きな課題。日本ではペーパーレスの流れもありますが、発展途上国での紙の需要は伸び続けていて、2030年には世界中で必要とされる紙が現状の約2倍に当たる8億トンに上るとも言われています。水不足の問題は深刻化しているのに、紙の需要は上がっている。そこで、水資源に貢献できるLIMEXが、世界各国から大きな注目を集めています。 アップサイクルしやすいことも大きな利点。LIMEX製品を回収して建築資材にしたり、スマホケースや食器をつくったりできます。LIMEXという新素材を世界に紹介すると同時にアップサイクルの仕組みも構築して、循環型社会づくりに貢献したい。そんな挑戦を続けていきたいと考えています。

※1 2013年から2017年の5年間。

時代の架け橋、
Times Bridge Management

僕は中学卒業後、大工になりました。勉強より遊びに夢中のまま社会に出てしまった、って感じですね。その後、何か大きなことに挑戦してみたい、という気持ちから、地元の友達や後輩と、生まれ育った大阪・岸和田で20歳のときに中古車販売業を起業しました。中卒で20歳を過ぎた自分たちが大きな会社に入る、というのは難しい。でも、大きな会社に入れないなら、大きな会社をつくればいい。その可能性なら1%くらい残っているんじゃないかと思ったんですね。 それから10年、30歳のときに初めて訪れたヨーロッパで、その街並みや建物が持つ歴史の重みに大きな衝撃を受けました。多感な時期に大工をやっていた、ということも関係しているかもしれません。工事の現場は、長くても数年で完成させて引き渡すのが一般的。新しいことが市場価値を持つ日本では、工期の短さも重視されました。一方、ヨーロッパの街には100年以上かけてつくられた建物がいくつもあり、遥か昔につくられた街並みに、今を生きる僕がこれほど感動する何かがある。起業家として過ごした、この10年という時間。どんな10年間を、あと何回繰り返せば、人生やり終えたと感じられるようになるだろう。途方もなく長い時間をかけてつくられた街並みの中で、そんな思いが胸に浮かびました。そして、気づいたんです。何百年もかけて街や建物をつくることは僕一人にはできない。だけど、何百年と続いていく会社や事業をつくることならできるんじゃないか、と。このとき抱いた、「時代の架け橋になる事業を経営し続ける」という思いが、Times Bridge Managementの頭文字である当社の社名の由来になっています。

「一億」と「一兆」を隔てるもの

岸和田という田舎で育った僕にとって、グローバルを意識する環境はそれまでになく、たった10時間飛行機に乗るだけで、こんな世界が存在していること自体も衝撃でした。そこから、グローバル規模でビジネスをする、素晴らしい街並みが当たり前に存在するように、わかりやすく世の中の役に立つ事業をする、という目標も同時に見つけることができました。 しかし、大きな気づきを得てヨーロッパから戻った僕を待ち受けていたのは、悶々とした日々でした。当時、ベンチャー界隈の人たちには、「ビジネスを大きく、スピード上げて成長させていくためには、コストパフォーマンスを最優先し、対人関係を軽視するような考え方」をする人もいて、そこに違和感が拭えなかったのです。時には利益よりも仲間とのつながりを重視する自分には、経営という仕事自体向いていないかもしれないと思い悩んでいました。 しかし、(現ソフトバンクグループ会長の)孫正義さんのセミナーに参加した時に、悩みは一瞬で吹っ切れました。もともと僕は孫さんの大ファンだったのですが、2003年、偶然お話を聞く機会がありました。その場で孫さんは、「利益だけを追求するビジネスは、せいぜい100億、200億くらいまでしか伸びない。兆のビジネスを成し遂げる人間は志高く、仲間を大事に思い、感謝の気持ちを忘れないものだよ」とおっしゃりました。懇々と、純粋に思いを説かれる姿に、心から感銘を受けました。「僕も絶対に、自分がいま仲間を大事に思う気持ちとともに、一兆円ビジネスに挑戦したい!」 孫さんのセミナーに参加した後、僕がいまでも掲げている3つの目標が揃いました。1、グローバルで挑戦する。2、わかりやすく人の役に立つ。3、一兆円までやり遂げる。この3つの目標を、時代の架け橋となる事業で叶えると心に決め、新たな事業との出会いを模索し始めました。

一枚の紙、ストーンペーパーとの出逢い

大阪時代の先輩に「山ちゃん、こんなん知っとるか?」と渡された一枚の紙がすべての始まりでした。その紙は石で作られている、ストーンペーパーというものでした。「どこで売っているんですか?」と聞くと「台湾らしい」と。当時は「いろはす」が発売された頃で、これからはロハスやエコといったことが事業になるのではないか、と感じていました。そこで台湾の山奥の小さな工場に通い、ストーンペーパーの日本の代理店契約を結んで輸入をスタートさせました。いざ日本でプロモーションをかけると、大手企業や商社からたくさん問い合わせを受けて、これはすごいな、と。なかでも嬉しかったのが、トヨタがプリウスのフルモデルチェンジの際に、ノベルティとして採用いただいたこと。あのトヨタが、自分が輸入したストーンペーパーを採用してくれたと思うと、嬉しかったですね。 その後も名だたる企業が採用してくださったのですが、当時のストーンペーパーは3つの課題を抱えていました。まず、とにかく重かった。さらに高価だった。その上、品質のバラつきがすごかった。紙に残留していた石の粒子が印刷機を傷つけて、ものすごく怒られたこともありました。「石の紙」に対する周囲の期待と、目の前で起こっている課題には大きなギャップがあり、なんとか解決すべく毎月のように台湾に飛び、品質向上に向けた話し合いを続けました。しかし、しばらく経っても一向に品質向上に着手している気配がない。課題のためにお客様からもリピートをいただけず、売り上げが伸びない状況が続きました。それでも台湾に通って話し合いをする中で、遂に「そんなに言うなら、もう買わなくていい」と言われてしまったのです。長い交渉の末、台湾の会社とは袂を別つことになりました。

二人の存在で、止まった時が動き出した

LIMEXは多くの方のお力で誕生したものですが、なかでも大きく運命を動かしてくれた方が二人います。一人目は、当社の会長でもある角祐一郎さん。大手製紙会社で昭和の高度経済成長を支えた技術のエキスパートです。ストーンペーパーの品質向上のアドバイザーとして、何度も台湾でお話いただきました。台湾の会社と袂を別つことになってからは、まったく新しい技術(製法)で石灰石を主原料とする素材開発の開発責任者として研究開発に当たっていただきました。そして2011年5月、遂に新技術の特許を申請。日本のR&Dの力で、新素材・LIMEXのサンプルが誕生したのです。 そして二人目が、野田一夫先生。現在は当社の最高顧問でもあります。野田先生は孫さんなど名だたる起業家が師と仰ぐような方で、お話できる貴重な機会を得たときに親身に聞いてくださり、「また何かあれば事務所を訪ねておいで」と言ってくださりました。日本のベンチャー界のレジェンドが、僕が挑戦したいと思っている事業に対して、興味を持ち、さらに期待と評価をしてくれている。そのこと自体が「まだまだ諦めちゃダメだ」と僕を奮い立たせてくれました。

リスクという言葉が持つ本当の意味

時代はリーマンショック後で市場は低迷。台湾の会社との契約を解除したことにより、会社自体も非常に苦しい時期でした。自分の家賃も払えず、会社の各種支払いも、とにかく分割払いをお願いしました。そんな中、中東やシンガポールを駆け回り、いろいろな人にお会いしました。話をすればするほど、この新素材の需要は絶対にあるという確信は増すものの、「第一号の工場建設の資金援助は難しい」という連絡を受ける日々。この時点で僕は40歳になっていました。「大きな夢に挑戦しているけど、現実的に会社が回っていない状況で、夢を諦めないと言っているのは、もはや、ただの悪あがきなのではないか。」 そんな葛藤が大きくなっていきます。さらに、資金援助をお願いしていると、「出資するから、これだけの権利を譲ってくれ」という類の、たくさんの交換条件を突きつけられたりもしました。「会社としては本当に厳しいから、少しでもお金が欲しい。でも、そういう条件を交わしたが最後、この事業はうまくいかなくなってしまうのではないか」と悩み、苦しみました。 その答えをくださったのも、野田先生でした。「日本人はリスクという言葉を、ネガティブに捉えすぎている。語源のイタリア語ではちょっと意味合いが違って、勇気をもって試みるという、非常にポジティブな意味なんだよ。君の事業に対して、この(第一号の工場建設という)タイミングで勇気をもって試みてくれる、ポジティブな意味でリスクを解釈してくれる人にだけ頭を下げて、一生懸命話をすればいいんだよ。」 その野田先生の言葉は、当時の僕をとても勇気付けてくれました。

人生でいちばん泣いた日

2012年の年末に、一本の電話がありました。経済産業省からでした。僕たちはイノベーション補助金制度という、イノベーティブな技術を実証・強化するための設備にかかる総額の最大2/3を補助しましょう、という補助金制度に二度の応募をしていました。「審査会が年明け1月25日にある。来られますか?」という電話でした。審査会には、完全に落ちている人と、逆に完全に受かっている人は呼ばれない。僕たちはこれが最後のチャンスだと思い、正月も準備に充て、会長と僕と、数人のメンバーでプレゼンテーションに臨みました。その審査会から一週間ちょっと、忘れもしない2013年2月6日に、補助金採択の電話をいただきました。工場建設に必要な想定資金14億円に対して、9億円近くの金額を採択いただいたんです。人生でこれほど嬉しい電話はありませんでした。 いつも走り回ってくれていた仲間に知らせの電話をかけると、電話口で一緒になって泣いてくれました。本当に久しぶりに、人に対して喜んでもらえる電話やメールができました。痺れるほど嬉しかった。頭を下げることばかり、ご迷惑をかけることばかり続いていた時期でした。「あの人への報告はお前からしていいぞ」「あの人には俺からさせてくれ」と仲間内で話しながら、不安を分け合って心配してくれた人に、喜びの連絡ができる。そのすべてが嬉しくて、涙が溢れて止まらなかった。人生でいちばん泣いた日だと思います。今でも、この日のことはよく覚えていますね。

工場の完成へ、全力で駆け抜けた1年

補助金には、年度予算なので採択から2年以内で工場を竣工させないといけないという規定があります。僕たちの場合、採択から決定通知をいただくまでに11か月近くを費やしていたため、あと1年ほどで工場を完成させ、機械を入れ、機械設備の検証(試運転)を終えなければならないという強行スケジュールが待ち受けていました。この1年間は、膨大な資金集めと支払いの連続でした。機械の手付け金や工事費用。毎月、何億という支払いを続けなければいけませんでした。毎日いろいろな方のもとに足を運んで資金を集めて、すべて月末の支払いに充てる。何億というお金を資金調達してはすぐゼロになる、というのを何ヶ月も繰り返しました。工場完成まで一時も立ち止まることは許されない。そんな鬼気迫る状況でした。 こちらが熱量を持って語ったことに対して、よし、と気持ちよく投資してくださる方はほんの一部です。僕自身、一緒に夢を見ていただける人、そして、ずっと一緒に感動して貰いたい人からお金を受け取りたい気持ちが強かった。なので、極力受け取りたくない人のお金を受け取らず、資金提供いただきたいと思える人に出会うために、1年間、必死に駆け回り、期限ギリギリとなる2015年の2月、最終的に約20億の資金をかけ、工場を竣工させることができました。多くの方、一人ひとりから投資の意志決定をいただけた瞬間は、僕の人生の宝物です。完成した工場を前に、胸に熱いものがこみ上げました。この工場を出発地点として、自分の人生をかけて、何としても皆さんの大きな期待を形にしていく。絶対に。そんな思いです。

駆けずり回った1年間で学んだ大切なこと

この1年間で、僕自身、心底成長させていただいたと思っています。以前は、こちらの話に対し、少しでもネガティブな反応をされると、「わかってもらえないなら、まぁ、いいや」とすぐ諦めてしまうこともありました。プライドには、捨てるべきものと、最後まで絶対に捨ててはいけないものの2つがありますが、最初の頃は、捨てるべきちっぽけなプライドを捨て切れていなかった。ところが資金調達を繰り返す中で、どんどん自分の安いプライドが邪魔になっていきました。出資者が増え、自分だけのビジネスでなくなってきたからかもしれません。少しでも時間を取っていただけただけで感謝し、断られた場合も、何が足りなくて決断に至っていただけなかったのか教えていただきたくて、ひと回りも下の若い人に対しても必死になって頭を下げました。至らなかった点を教えていただきながら、次に生かすということを繰り返しました。 そうして学んだ、思い描いた事業を形にしていくために大事なこと。それは、謙虚さと感謝の気持ちです。謙虚に、必死に助言を仰ぐことで、人は「何か教えてやろう」と思うものだと思いますし、感謝の気持ちが、「誰か紹介してやろう」と相手の心を動かすのだと思います。いろいろな方がそれぞれの24時間を生きている中で、自分たちの夢のどこに感情移入していただくのか。力になってくださる方をどうやったら巻き込んでいけるか。簡単なことではありません。僕の経験としては、周りの方が共感してくださることで事業の輪はどんどん大きくなり、大企業や国の後押しを受けることにもつながる。謙虚さと感謝の気持ちを大切にしながら挑戦を続けることが、夢を形にしていくのだろうと感じています。

エピローグ:何のために何をするのか

自分のためだけではない、「何のために何をするのか」という思いが、自分のパワー以上のものをくれると、今となっては思います。僕自身も、最初はよくわかっていなかったかもしれません。でも、資金集めで事業のプレゼンを重ねるたびに、話を聞いてくださる方から多くのことを気づかせていただきました。僕らが挑戦する事業は、ただ素材をつくることではない。グローバルリスク解決の糸口になるものであり、発展途上国の子どもたちにこの素材から生まれた製品を届けられるものであり、地球環境をよりよくしていくものであり、時を超えて、世界中を明るくするものでもある。その思いに共感してくださった人が、新たな人を呼んでくれ、その輪を広げてくれた。このご縁に心から感謝しています。何があってもこの事業をやり遂げる。そういう思いで、僕たちはこれからも挑戦を続けます。

山﨑 敦義
株式会社TBM 代表取締役
20歳に中古車販売業を起業。複数の事業立ち上げを行う。30代になり、グローバルで勝負が出来て100年後も継承される人類の幸せに貢献できる1兆円事業を興したいと奮起。時代の架け橋となる株式会社TBMを立ち上げる。岸和田市立久米田中学校卒。Japan Venture Awards 2016「東日本大震災復興賞」受賞。Plug and Play 2016「世の中に最も社会的影響を与える企業-ソーシャルインパクトアワード」受賞。2017年、スタンフォード大学にて日米イノベーションアワード受賞。日経スペシャル「カンブリア宮殿」10周年500回記念番組に登場。
山﨑 敦義
株式会社TBM
代表取締役
20歳に中古車販売業を起業。複数の事業立ち上げを行う。30代になり、グローバルで勝負が出来て100年後も継承される人類の幸せに貢献できる1兆円事業を興したいと奮起。時代の架け橋となる株式会社TBMを立ち上げる。岸和田市立久米田中学校卒。Japan Venture Awards 2016「東日本大震災復興賞」受賞。Plug and Play 2016「世の中に最も社会的影響を与える企業-ソーシャルインパクトアワード」受賞。2017年、スタンフォード大学にて日米イノベーションアワード受賞。日経スペシャル「カンブリア宮殿」10周年500回記念番組に登場。

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