SDGs達成後を想像し、
希望の引力でつくる
“世界中平和”
雨宮 優OZONE合同会社 代表
2018.08.31
課題を突きつけるのではなく、課題が解決した後の“せかい”を1日限りの現実として描く“ソーシャルフェス®”。その発起人である雨宮優さんが考える、SDGsと“せかい”。あそびと文化。ソーシャルと哲学。そして投げかけられる問いの数々。SDGsやESG投資、そしてその裏に隠れた現実の話まで、限られた時間の中、目一杯語っていただきました。フェスというエンターテイメントを入り口として、希望の引力でつくる“世界中平和”の世界観こそ、これからのSDGs時代に本当に必要とされる、新しくも大切な景色なのかもしれません。
以下、容量の関係により、一部内容を割愛させていただきながら、そのエッセンスを余すところなくご紹介します。
音楽と文化と“響育”。自分は、この3つの言葉で構成されているような人間なのかな、と思っています。エンターテインメントとエデュケーションの両面をぐるぐるしているような人間です。OZONEは“Imagination Company”と銘打っていて、スペキュラティブデザインを用いた創作を通じて新たな「問い」を生む会社です。デザインの使命は「問い」を生み出すことだ、という考え方に基づいた手法で、肯定的ではなく批評的。問題解決ではなく問題発見。答えを提供するのではなく疑問を提示する。そういう概念ですね。問いに対して想像を膨らませることで変化を生んでいく。そんな哲学が自分の中にもあるからです。「想像力は知識より大切だ。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む」というアインシュタインの言葉を軸として、いろいろな事業や企画を考えています。
僕たちが取り組んでいる“ソーシャルフェス®”というのは、SDGsの各目標が達成された後の“せかい”を表現し、体感できるフェスづくりプロジェクトです。良さそうな社会を楽しく表現して身体感覚から未来を考えることをコンセプトにしています。「こんな“せかい”、どう?」といった問いをとりあえず投げて、体験してもらって、考えるきっかけをつくる。憂さ晴らしとしてのエンターテイメントだけでない、課題の向こう側の世界を1日限りで現実にしてみよう、という試みでもあります。
Mud Land Festを例に挙げると、企画としては、有機野菜畑を泥々にして、地域の農家さんや都会から来る若い人みんなで泥まみれになって踊る音楽フェスです。畑の近くにはキッチンを配置。参加者は食べられる分だけ畑で食材を収穫し、キッチンに持ち込むことで、その場で調理した新鮮な野菜も食べられます。その成り立ちとSDGsがどう関係しているかというと。最初にSDGsの目標12のターゲット3、ざっくり言うと、フードロスの問題をテーマに選びました。では、フードロスが解決された先の未来ってどんなだろう?というのを、実際にその問題に取り組む企業や農家さんと対話を重ねながら一緒に想像します。その中で出てきたのが、「顔の見える消費が普及していて、食料を廃棄しない意識が向上している“せかい”であり、地産地消ってことでもある」という想像。そこから、その“せかい”を今ここで体験するにはどうしたらいいかを考え、その答えをフェスという形で表す、という流れです。
前述のようなキッチンの仕組みにより、フードロスはゼロになり、フードマイレージ(食品輸送距離)もゼロにしています。なおかつ、生産者の顔が見えるどころか一緒に踊って楽しくて、そしてもちろん獲れたてでおいしい。畑にエンターテイメントとキッチンの機能を追加するだけで、こういう感じになりますけど、そういう“せかい”はどう?と問いてます。ソーシャルフェス®というのは意識拡張のための入り口なんです。そこから先の課題解決に向けた判断は、参加者各々がお好きにどうぞ、と。
このように、僕らはソーシャルフェス®を考える際のツールとしてSDGsを使っています。SDGsの課題は、“せかい”とか未来とか、今ここにないものに対して想像力を働かせていくようなものばかり。フェスを通じて体験できる“せかい”の身体的で直感的な幸福感みたいなところから、まずは課題に気づいてもらって、自分なりの判断をしてもらえたらな、と考えています。課題を解決した後の未来がいいものであるなら、人はその引力に引き寄せられていくはずだから、まずはそれをフェスでつくる。ミレニアル以降の世代への伝え方という視点でも、フェスというフォーマットはやさしいなと考えています。SDGsという課題を啓蒙していく、となってしまうと硬くなりがちなので、SDGsが解決した後の“せかい”、つまり希望をフェスを通して体験してもらう方がいいな、という考え方ですね。課題の斥力よりも、希望の引力の方が、きっと強いはずですから。
そもそもSDGsとは何か。簡単に言ってしまえば、最適化された社会を定義する1つの世界的合意です。2015年に定められ、2030年までに国連参加国みんなで達成しましょう、というアジェンダです。1から17のゴール(目標)が設定されていて、そのそれぞれが10個くらいの具体的なターゲットから構成されています。その17の多角的な目標のもとで、世界中でも様々な動きが展開されています。SDGsは、MDGsという歴史上最も成功した貧困撲滅運動の流れから生まれたものです。MDSsの成果として、極度の貧困は半減したけど、まだまだ取り残されている人たちがいるし、見えてこなかった課題もある。それらを全部抽出して完全に終わらせようという、ある種、人類としての大きな物語がSDGsに集約されている、とも言えます。
17の課題は相互に密に関連しています。例えば目標4の「質の高い教育をみんなに」というゴールに関して、ある国で児童労働が原因で学校へ行けない子どもがいるとします。解決するには児童労働をなくすことが必要で、そのためには、目標8の経済成長や目標9の産業の基盤づくりも関係してくるし、そもそも電気がなくて暗いから勉強できないという状況があれば、目標7のエネルギー面での課題解決も必要になってくる。通学路で何者かに襲われる危険性があるなら目標16の「平和と公正をすべての人に」も関係してくる。あらゆる課題が相互作用しあって、紐付いて存在している。そのためSDGsは、「普遍的で変革的で不可分である」という3つの信念を持って進められています。
SDGsがもたらす効果は、僕なりに大きく4つあると考えています。1つ目として、これまで漠然に「世界平和」として語られてきたことが17の明確な目標に変わり、行うべきことが整理され、結果が可視化されたこと。2つ目が、他業種の協働。17の目標により、同じ領域ながらこれまで交わらなかった取り組みや行政、企業、個人が協働しやすくなりました。3つ目が、ESG投資の活性化。環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)に配慮している企業への投資のことを、それぞれの頭文字を取ってESG投資と言いますが、いま世界的に拡大しています。2030年に達成すべきゴールと現在との差分が巨大なビジネス機会として捉えられている側面もあるわけです。そして4つ目として、文明の発展。人類として、そろそろ次の文明に行きたいよね、という、文明発展に向けての加速装置にもなっています。
しかし、物事には表があれば裏もあります。これまでいろいろ活動してきた中で、SDGsがもたらす効果の裏側にはこんな側面もあるな、と考えていることをご紹介します。1つ目が、目標設定として包括しきれないものが当然あるということ。当たり前ですが、人類70億人もいて、全部の課題が17個に包括されるわけがない。日本だと例えばいじめや政治的癒着の問題。その辺の細やかな課題に対しての不満があるという声はよく聞きます。2つ目に、そもそも世界平和というのが、この17個の目標すべてが達成された世界なのか?という問いです。この17個の課題自体が、正しさの押しつけになってしまっていないか、と。3つ目は、ESG投資への対応として、このSDGsにコミットすること自体がポージングとして終わってしまっていることもあるということ。ファッションCSRというか、とりあえず「弊社、SDGsやってます」と取り繕っているだけというのも結構あって。CSRって大変じゃないですか。だからとりあえず自社の既存のCSR的な活動に対して、「うちはSDGsのこの目標に取り組んでいます」みたいな紐づけをしておけば見え方いいよね、と。取り組みではなく、単なる対応になってしまっている。そんな側面もありますね。最後4つ目として、目的の忘却もあるかと思います。SDGsそもそもの目的は世界平和であり、SDGsは目標であってツールに過ぎない。本来の目的を忘れて、目標を目的だと勘違いしてしまうと、SDGsの本質とのズレが生じかねないと感じています。
SDGsの目的でもある平和にはいろいろな定義があると思いますが、自分の中では「平和とは、それが何かを考え続けられることである」と考えています。世界平和を謳うSDGsに対しても、ある種、訝しみながらも取り組んでいくという姿勢がまっとうだなと僕は考えています。
世界平和より“世界中平和”、という言葉を友人が言っていたのですが、僕の思いも近くて、まずはそれぞれの世界を持って、それぞれの世界が平和であることが、大きなものやことの平和にも繋がっていくと思っています。まぁ、世界も生き方も、多様なほうがおもしろみが深いよね、と。そのために、課題の斥力ではなく、希望の引力で形作れる仕組みと体感が必要なんです。
時代の武家中心の集権社会の後、安土桃山時代で文化が膨らんでは、江戸時代のような集権に立ち返り、また明治維新で文化を広げて、みたいな感じで、常に拡散と収縮のバイオリズムがある。人文学や芸術で夢を膨らませては安定した社会に立ち返り、安定に飽きてはまた別の社会をもとめて文化を膨らませて、というのを繰り返しているんです。
その中で、僕らは次にどこへ向かうのだろうと考えていくと、まずは現在の集権から分権の流れがあって、経済で言えば信用創造に基づく銀行マネーを廃止するフルマネーイニシアチブというアクションがスイスで起きていたり、資金調達もクラウドファンディングが一般化してきたり、政治においても直接民主制の潮流がアジア諸国でも起き始めていたり、エネルギーもオフグリッド発電への移行が見られたりだとか。社会保障や信用創造といった国家機能も、全てブロックチェーンに移り変わろうとしています。その後はバイオテクノロジーが生命を超克し、人工的に生と死がコントロールできるようになったり、記憶をクラウド化できるようなったりして、ホモサピエンスという種をどこまで定義するかという倫理哲学的な課題も現れるかもしれません。あるいは生と死が量子的な概念として存在しているかもしれませんね。
このように、あらゆるものが分権化して次の時代に行こうという流れがある中で、自分たちの意識というものがどういう構造であり、なおかつ自分たちはサステナブルを目指しているように見えて、本当にそこに向かっているんだろうか、といった問いを通じて、自分自身の意識を疑うところから考え続けなくてはいけないような局面なんだろうなと感じています。
社会とは今ここにいる一人ひとりの集合体であって、それぞれに影響を及ぼし合っている。ただそこにいるということ、見えていること、聞こえていること、匂いを感じていること、椅子に座っているということ、そういうあらゆる環境の影響を受けて、無意識に作用されているわけですね。その無意識というのが、こころと呼ばれているものだったりします。そのこころというものの中から意識が生まれるわけですが、その意識の中に、自我があったり世界観があったり、幸福論が生まれたりする。そこでようやく社会というのが生まれるわけです。要は、物理があって、こころがあって、そのフィルターを通してコトが生まれた先に個々人の世界というのが生まれて、その集合体が社会というものになっているというのが、ソーシャルという言葉の構造なのかなと思っていて。その集合体というのは、それこそ哲学の領域で何かはわからないんですが、一つには“集合意識自然”だとも言えるかなと思います。あとは、先ほど挙げたサピエンス全史などではすべて“虚構”だとも言われていて、地球が存在していて、自然科学があって、ただそれ以外のことは全部人間がつくり出したフィクションですよ、と。例えば、教育も年齢も、ジェンダーも家族も経済も、すべて虚構ということになります。
さらに、“せかい”とされるものを考えるには大きく2つの哲学があると思っています。1つは、カンタン・メイヤスーらの哲学者が唱える、先ほどのポストモダン思想で、地球は存在している、自然科学はある、けれどもそれ以外のことは全部フィクションだという思弁的実在論。もう1つは、世界は存在しない、ただし、それ以外は全て存在するというような、新しい実在論(量子的実在論)。アメリカの投資銀行のメリルリンチが、「我々の世界は50%の確率でシミュレーションソフトである」というような発言をしたり、イーロン・マスクも「我々が“天然”の世界に生きている可能性は数十億分の一である」というような話をしている。そもそも“せかい”や“ソーシャル”というようなものは複雑系で観察次第でもあって、明確な答えはどこにもない。なので今のところは“WORLD IS MIND”です。
僕がやっているフェスとSDGsというのは、あそびとまなびの構造なんですが、ホイジンガという人類学者が、「人間の本質はあそぶことにある」と語っています。人間は知恵あるところが本質ではなく、あそぶところに本質があるという理論ですね。さらに、文芸批評家のロジェ・カイヨワという人の論に、「あそびの楽しさの種類について」があります。そもそも定義として、あそびとは、自由な活動、隔離された活動、未確定な活動だ、と。その楽しさの種類として、規則から自由になろうとする力(パイディア)と、規則をつくろうとする力(ルドゥス)の2つがある。演劇などは自分を脱ぎ捨てて規則から自由になろうとする力。一方、サッカーやチェスなどは規則をつくる力。パイディアとルドゥス、その両方が人類にとって楽しさとして存在している、と。
おもしろいのが、先ほどソーシャルとはなんぞやという話の中でも登場したバイオリズムが、あそびの楽しさを語る上でもあると考えられている点です。規則をつくったら、それを壊すあそびがしたくなり、規則を壊すあそびをした後は規則をつくるあそびをしたくなる。つまり、パイディアとルドゥスを繰り返すバイオリズムがあるんじゃないかと言っているわけですね。これは、フェスティバルやソーシャルデザインを考える上で非常に重要な観点だと思います。「文化はあそびの残滓か。あるいは、あそびが文化の残滓なのか」というような問いが、あそびという概念から考えられるわけです。
“そうぞう機会の最大化”をOZONEではミッションに据えていて、1人ひとりの“そうぞう(想像と創造)”機会を最大に広げていくことが、個人にとっては居場所を、文明にとっては持続可能性をつくっていくことに繋がるんじゃないかと思っています。また、概念化されていない非言語な体験を通して本来知り得なかった世界にまで突入することで、個人にとどまっている世界の垣根を融解させていきたいな、という思いもあります。そのようなミッションを実現していくために、文化的にも機能的にも大衆的かつコンセプチュアルなフェスティバルという形式を用いています。言ってしまえば、楽しくおもしろい“やさしい詐欺”のようなことをしてます。フェスを通じて“せかい”を提示することで、気軽に楽しく未来を感じよう、考えよう、ということ。「こんな“せかい”、どう?」という問いとしてのフェスづくりなんです。